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訂正読み:須賀線(すかせん)ご指摘いただきありがとうございます。お詫びとともに訂正いたします。
やはり家の近くだった下河原線が記憶に残ってます。この頃の国分寺駅は北口から南口に行くには1キロ以上の遠回りか入場券を買って構内を通るしかありませんでしたね。
京王線の多摩御陵支線も有名だよね👍
八王子には甲州街道上を走る「武蔵中央鉄道」も有りましたね。😀😃😅
立川の線路は先日、西武立川駅からJR立川駅への乗換えで通った際に見かけました。線路が敷いてあって何だろうと思って、今昔マップを見て廃線跡だと知りました。線路からカーブして分岐していく道路があれば、それは廃線跡だと推理できるのが楽しいですね。
赤羽の廃線跡は自分が小学生の頃迄錆びた線路が数カ所に残ってたよ。
そういえば、その昔奥多摩方面に東京都水道局が敷設したダム建設用の引き込み線がありましたね。
立川の昭和記念公園の東側にも廃線跡がありました。現在は栄緑道という遊歩道になっています。昭和50年代後半まで、立川通りとの交差点が踏切跡のため盛り上がっていたのを覚えています。
武蔵野競技場線が三鷹市と紹介されてますけどほぼ全部武蔵野市ですね。それと球場が閉鎖されたのは土埃がひどくて使用に耐えなかったという話も聞きます。国鉄がまだスワローズを持っていた頃なので引き込み線も引けたんでしょうけどもったいないことしましたな。
北区赤羽あたりの廃線跡でよく遊んでましたよ、まだプラットホームとかも残ってた
赤羽の火薬庫、弾薬庫の廃線。各地にあった米軍の引き込み線。中野にあった前は警察学校。旧陸軍の施設から荻窪方向にあった鉄道連隊の線路跡。京王線仙川から調布までの旧線路跡。村山貯水池建設時の軽便鉄道跡。などなど。
10:55越中島貨物駅は現在もありますよ主にレールの輸送に活用されてます
出た!あの止まらなくていい踏み切り??😂
東京都在住のオレの頭頂部もペンペン草が生えた廃線跡のようになっている。
下河原線昭和40年代で終わりの貨物の線路行った事あるが線路だけで施設は無かった。競馬場駅には何回か乗って行った事あります。北府中から分岐した米軍府中基地への専用線も残っていました。
廃線なら、玉電が懐かしいです。子供料金が無くて、片道16円、往復券25円だったと記憶しています。当初ジャリ電、その後ジャマ電、そして、田園都市線、感慨深いです。
昭和40年代に江東区東雲に住んでいました。当時は豊洲小学校まで歩いて通っていましたが東雲橋を渡り切ったところに港湾局専用線(深川線)の踏切があり、登校時に作動するところを見れたときは嬉しかった思い出があります。踏切は昇開式(ワイヤー)で開閉は人の手でハンドル操作していました。豊洲方面の線路は当時の豊洲公園から間近に見ることができました。現在のららぽーと3の裏手にある少しRを取った道路がほぼほぼ線路跡です。
可能だったらでいいので、和暦と西暦を併記してもらえると嬉しいです。今から何年前かとか、戦前なのか戦後なのか、この頃のヨーロッパは、、、など時代背景をより直感的に把握しやすくなると思います!
中央線と下河原線の分岐点の所に鉄道学園があってその引き込み線も下河原線から分岐してました。国鉄がJRになって鉄道学園が廃止された後もしばらく下河原線の0キロポストが残っていたけど今もあるのかな
初っ端に武蔵野競技場線が取り上げてもらった😆そして浄水場引き込み線も取り上げてもらった😁中島飛行場からひばりが丘近くの住友重金への軍事路線は取り上げます?
中島飛行機跡地は武蔵野市役所、NTT通信エネルギー研究所ですね。NTT研究所は神奈川県厚木市森の里に合併されたのかな?
亀有日立の引込線跡引込線があった影響で建物が変な角度で建てられている。
立川基地引き込み線はしばらくの間線路残ってた
米軍といえば啓志線もありましたね。
武蔵境浄水場への専用線は、浄水場で濾過用に使う砂の入れ替え用に、かなり後まで使われていました。専用線が使われなくなった後の1970年代半ばにも、まだ浄水場内には、砂運搬用のナベトロと軌道が残っていました。中央線と西武新宿線の間の中島飛行機工場地帯には、両線を結んで相当数の専用線が敷設・使用されていたそうで、地元の刊行物や雑誌『東京人』に発掘記事が掲載されました。(私の母校、武蔵野市立第四中学校の校舎は、1973年に取り壊されるまで、中島飛行機青年学校の頑丈な建物でした。同じく母校の成蹊学園グランドにも高射砲陣地があり、辺りには地下トンネルが張り巡らされていました。)
立川周辺は他にも立川飛行機の引込線や五日市鉄道など結構ある。
北王子線の廃止後に近くに住んでいたけど、まだ踏切や線路が残っていたり、新築マンションのエントランス近くの地面に線路のオブジェが埋め込まれていた
廃線跡旅する時は相模線のe131系500番台が大好きだから川崎フロンターレのユニフォーム着て歩く
歴史紹介ありがとうございます。出来れば現在の様子風景をあげてくれるとより理解しやすいかと思います
武蔵野、あの浄水場に沿って流れる玉川上水の橋には、今でも記念にレールが残ってます。立川の方はてっきり国立側青果市場の方だと思った。引き込み線も青果市場もどっちもいまはないけど。
地下鉄がない時代の廃線は跡形もなくなる・・・わけでもなく意外な跡があるものなんですねw
晴海橋梁は仮面ライダーV3のロケで使われたので、昭和特撮・ライダーファンの聖地となっています。
国鉄下河原先は多摩川の砂利運搬から始まった。府中市内の跡地は遊歩道として残っている。東京競馬場前駅は当時国鉄で日本一長い駅名だった。西武多摩川線は多摩川の砂利運搬が始まりだった。小河内線が東京最大の廃線跡だと思う。現在の奥多摩駅からダム建築現場水根駅迄の6.7kmが丸々残っている。立ち入り出来るかは別問題だが一時期西武が買い取って観光地化を計画したが断念した経緯がある。国立駅から鉄道総研への線路跡も有名
あの小河内線が最初の計画では東京と山梨を結ぶ路線になる筈だったのです。小河内を越えて大きく峰を抜けて藤野に抜ける計画だったそうです。しかし計画では碓氷峠のようなラック&ピニオンで急勾配を抜けるつもりだったそうですが、碓氷峠の66‰を超える80‰の勾配を機関車で超えるのは不可能との結論で現在の中央線ルートでトンネルを多数掘る方に変わったのだそうです。小河内線(青梅線奥多摩⇔水根)は、工事が中断した後で石灰石輸送に転用されて更に小河内ダム建設の資材運搬路線として使われました。😀😃😅
昔、甲州街道を京王軌道が走ってたのは線路はなくても跡地に記念碑は立っていますよね。下川原線跡は近くなのでいつも散歩道になってます。北府中駅から東芝工場への引き込み線がありますが103系がたまに置いてあります。使用しているのですかね私が小さいころ記憶しているのが近所のお兄さんに鉄道が好きと言ったら、多摩川の河原にナローゲージの軽便鉄道のような砂利運搬線の残骸がありました。ぼろぼろに錆びた線路、機関車がありました。多分昭和48年台になる頃、記憶によると多分JR南部線の中野島駅あたりの多摩川の河原かと思いまます。
@@kensamurai1807 20年以上前に電気機関車(桃太郎)の出庫に偶然遭遇したらカメラ小僧が撮り鉄していた。
あの一見103系に見える車両は、実は73系なんだそうです。そういえばあまり見た事が無い台車ですよね。止めてある場所には昔東芝の工員専用ホームが有ったそうです。😀😃😄
廃線痕 と言っても いろんな線路があるんですね下河原線は中学生になるころまであったので馴染み深いですが特筆すべきは 現 西国分寺駅付近の鉄道学園の横を通過し府中街道を踏切で渡っていたことでしょう線路の方から鉄道学園のグラウンドへ普通に忍び込んで遊んでました。
東上線の上板橋から現在の光が丘公園に伸びていた鉄道も取材してね!
生まれも育ちも府中市民で大の鉄道オタク、全て知ってた、
下河原線は東京競馬場前駅に通じる方は1973.03.31いっぱいで廃止(翌日に武蔵野線が開業)となりましたが、下河原貨物駅は1976年度までありましたよ。最末期はDD13がトラ車を牽いて一往復だけしてたそうです。自宅にあった古い都内地図で当線に興味が湧いた私は、1980年秋に訪れてみましたが、軌道が撤去されて間もなかったようで枕木の凹みが残っていました。競馬場駅跡には寄らなかったし、京王の中河原駅までは行ったのですがなぜか終点付近の記憶がありません。整地工事とかで立ち入り禁止だったのかなぁ。その少し前に廃線訪問した方のブログを見ましたが、競馬場駅への分岐点はポイントや信号機をわざわざ撤去して最終廃止まで列車が通ったようです。今では自転車&遊歩道もキレイにできて住民の通りが盛んですよ。
甲州街道を横断する踏切があったんだけどなぁ!
下河原線の一部、北府中駅付近は東芝で製造された機関車の試走路として「活きています」ね。現在、中央本線や武蔵野線、東北本線あたりを走っている「EH系電機機関車」は全てこの下河原線跡で試走した筈です。まぁ「金太郎の交流試験」はどうしたのかはわかりませんが…。😀😃😅
須賀線で思い出しましたが、この界隈に親戚の家があり、どこかの民家かに腕式信号機があったのを覚えています。昭和50年台のお話なので、今も現存しているのかもわかりません。
あまり取り上げられる事はありませんが、中野駅から分岐して、早稲田通りの南側に沿うように西進する陸軍用の鉄路があったようです。戦後はすぐに撤去され、古地図でも詳しくは載っていませんが、現在の日大二高のあたりまで伸びていたようです。
西方向に延びている須賀線は、都電27系統と国鉄が平面交差していた珍しい線じゃなかったかしら。そのため当初は蓄電池式機関車AB10型が使われていたとか。
中神が中紙になってます
何で廃止しちゃうかねぇ…延伸なりなんなりして、今も残ってたら結構使い勝手良いと思うんだけどなぁ…
結局はお金でしょうね。延伸するにも維持するのにもお金はつきまといますし。
下河原線は実質的に武蔵野線に置き換わった形ですけどね。北府中駅付近はそのまま流用してるようですしあと、東京競馬場輸送は京王に完全に任せたわけではなく、府中本町駅がその代わりになってるだけかと思いますが東京競馬場駅があったから、京王のほうは府中競馬正門前と正門をつけて強調していますね
引き込み線レベルではない本格的配線である五日市線を取り上げて下さい特にまだまだ乗った人間が多く残っている大久野部分ではなくて、90代以上しかいない立川部分に載ったことある人の証言を
現在の青梅短絡線上にあった武蔵上ノ原から、現在の堂方上交差点経由で拝島へ至る、旧五日市鉄道時代のルートですね。国有化されて間もなく(青梅線の立川~拝島間と競合するとの理由から)廃線になり、地図を見るとその廃線跡と思しき「五鉄通り」という道路があるものの、それさえ今なお完全につながっているわけではなく、中には宅地化されてしまった箇所もあって、いささかながらも惜しれまる限りです……。
@@あわのみやけんきち さん「五鉄通り」には所々に「五日市鉄道の紹介板」が有るそうですよ。😀😃😅
貨物線ばかりだな
訂正
読み:須賀線(すかせん)
ご指摘いただきありがとうございます。
お詫びとともに訂正いたします。
やはり家の近くだった下河原線が記憶に残ってます。この頃の国分寺駅は北口から南口に行くには1キロ以上の遠回りか入場券を買って構内を通るしかありませんでしたね。
京王線の多摩御陵支線も有名だよね👍
八王子には甲州街道上を走る「武蔵中央鉄道」も有りましたね。😀😃😅
立川の線路は先日、西武立川駅からJR立川駅への乗換えで通った際に見かけました。
線路が敷いてあって何だろうと思って、今昔マップを見て廃線跡だと知りました。
線路からカーブして分岐していく道路があれば、それは廃線跡だと推理できるのが楽しいですね。
赤羽の廃線跡は自分が小学生の頃迄錆びた線路が数カ所に残ってたよ。
そういえば、その昔奥多摩方面に東京都水道局が敷設したダム建設用の引き込み線がありましたね。
立川の昭和記念公園の東側にも廃線跡がありました。現在は栄緑道という遊歩道になっています。
昭和50年代後半まで、立川通りとの交差点が踏切跡のため盛り上がっていたのを覚えています。
武蔵野競技場線が三鷹市と紹介されてますけどほぼ全部武蔵野市ですね。
それと球場が閉鎖されたのは土埃がひどくて使用に耐えなかったという話も聞きます。
国鉄がまだスワローズを持っていた頃なので引き込み線も引けたんでしょうけどもったいないことしましたな。
北区赤羽あたりの廃線跡でよく遊んでましたよ、まだプラットホームとかも残ってた
赤羽の火薬庫、弾薬庫の廃線。各地にあった米軍の引き込み線。中野にあった前は警察学校。旧陸軍の施設から荻窪方向にあった鉄道連隊の線路跡。京王線仙川から調布までの旧線路跡。村山貯水池建設時の軽便鉄道跡。などなど。
10:55越中島貨物駅は現在もありますよ
主にレールの輸送に活用されてます
出た!あの止まらなくていい踏み切り??😂
東京都在住のオレの頭頂部もペンペン草が生えた廃線跡のようになっている。
下河原線
昭和40年代で終わりの貨物の線路行った事あるが線路だけで施設は無かった。
競馬場駅には何回か乗って行った事あります。
北府中から分岐した米軍府中基地への専用線も残っていました。
廃線なら、玉電が懐かしいです。子供料金が無くて、片道16円、往復券25円だったと記憶しています。
当初ジャリ電、その後ジャマ電、そして、田園都市線、感慨深いです。
昭和40年代に江東区東雲に住んでいました。当時は豊洲小学校まで歩いて通っていましたが東雲橋を渡り切ったところに港湾局専用線(深川線)の踏切があり、登校時に作動するところを見れたときは嬉しかった思い出があります。踏切は昇開式(ワイヤー)で開閉は人の手でハンドル操作していました。
豊洲方面の線路は当時の豊洲公園から間近に見ることができました。現在のららぽーと3の裏手にある少しRを取った道路がほぼほぼ線路跡です。
可能だったらでいいので、和暦と西暦を併記してもらえると嬉しいです。今から何年前かとか、戦前なのか戦後なのか、この頃のヨーロッパは、、、など時代背景をより直感的に把握しやすくなると思います!
中央線と下河原線の分岐点の所に鉄道学園があってその引き込み線も下河原線から分岐してました。国鉄がJRになって鉄道学園が廃止された後もしばらく下河原線の0キロポストが残っていたけど今もあるのかな
初っ端に武蔵野競技場線が取り上げてもらった😆そして浄水場引き込み線も取り上げてもらった😁中島飛行場からひばりが丘近くの住友重金への軍事路線は取り上げます?
中島飛行機跡地は武蔵野市役所、NTT通信エネルギー研究所ですね。NTT研究所は神奈川県厚木市森の里に合併されたのかな?
亀有日立の引込線跡
引込線があった影響で建物が変な角度で建てられている。
立川基地引き込み線はしばらくの間線路残ってた
米軍といえば啓志線もありましたね。
武蔵境浄水場への専用線は、浄水場で濾過用に使う砂の入れ替え用に、かなり後まで使われていました。専用線が使われなくなった後の1970年代半ばにも、まだ浄水場内には、砂運搬用のナベトロと軌道が残っていました。中央線と西武新宿線の間の中島飛行機工場地帯には、両線を結んで相当数の専用線が敷設・使用されていたそうで、地元の刊行物や雑誌『東京人』に発掘記事が掲載されました。(私の母校、武蔵野市立第四中学校の校舎は、1973年に取り壊されるまで、中島飛行機青年学校の頑丈な建物でした。同じく母校の成蹊学園グランドにも高射砲陣地があり、辺りには地下トンネルが張り巡らされていました。)
立川周辺は他にも立川飛行機の引込線や五日市鉄道など結構ある。
北王子線の廃止後に近くに住んでいたけど、まだ踏切や線路が残っていたり、新築マンションのエントランス近くの地面に線路のオブジェが埋め込まれていた
廃線跡旅する時は相模線のe131系500番台が大好きだから川崎フロンターレのユニフォーム着て歩く
歴史紹介ありがとうございます。出来れば現在の様子風景をあげてくれるとより理解しやすいかと思います
武蔵野、あの浄水場に沿って流れる玉川上水の橋には、今でも記念にレールが残ってます。立川の方はてっきり国立側青果市場の方だと思った。引き込み線も青果市場もどっちもいまはないけど。
地下鉄がない時代の廃線は跡形もなくなる・・・
わけでもなく意外な跡があるものなんですねw
晴海橋梁は仮面ライダーV3のロケで使われたので、昭和特撮・ライダーファンの聖地となっています。
国鉄下河原先は多摩川の砂利運搬から始まった。
府中市内の跡地は遊歩道として残っている。
東京競馬場前駅は当時国鉄で日本一長い駅名だった。
西武多摩川線は多摩川の砂利運搬が始まりだった。
小河内線が東京最大の廃線跡だと思う。
現在の奥多摩駅からダム建築現場水根駅迄の6.7kmが丸々残っている。
立ち入り出来るかは別問題だが一時期西武が買い取って観光地化を計画したが断念した経緯がある。
国立駅から鉄道総研への線路跡も有名
あの小河内線が最初の計画では東京と山梨を結ぶ路線になる筈だったのです。
小河内を越えて大きく峰を抜けて藤野に抜ける計画だったそうです。
しかし計画では碓氷峠のようなラック&ピニオンで急勾配を抜けるつもりだったそうですが、碓氷峠の66‰を超える80‰の勾配を機関車で超えるのは不可能との結論で現在の中央線ルートでトンネルを多数掘る方に変わったのだそうです。
小河内線(青梅線奥多摩⇔水根)は、工事が中断した後で石灰石輸送に転用されて更に小河内ダム建設の資材運搬路線として使われました。😀😃😅
昔、甲州街道を京王軌道が走ってたのは線路はなくても跡地に記念碑は立っていますよね。下川原線跡は近くなのでいつも散歩道になってます。北府中駅から東芝工場への引き込み線がありますが103系がたまに置いてあります。使用しているのですかね
私が小さいころ記憶しているのが近所のお兄さんに鉄道が好きと言ったら、多摩川の河原にナローゲージの軽便鉄道のような砂利運搬線の残骸がありました。ぼろぼろに錆びた線路、機関車がありました。多分昭和48年台になる頃、記憶によると多分JR南部線の中野島駅あたりの多摩川の河原かと思いまます。
@@kensamurai1807 20年以上前に電気機関車(桃太郎)の出庫に偶然遭遇したらカメラ小僧が撮り鉄していた。
あの一見103系に見える車両は、実は73系なんだそうです。
そういえばあまり見た事が無い台車ですよね。
止めてある場所には昔東芝の工員専用ホームが有ったそうです。😀😃😄
廃線痕 と言っても いろんな線路があるんですね
下河原線は中学生になるころまであったので馴染み深いですが
特筆すべきは 現 西国分寺駅付近の鉄道学園の横を通過し
府中街道を踏切で渡っていたことでしょう
線路の方から鉄道学園のグラウンドへ普通に忍び込んで遊んでました。
東上線の上板橋から現在の光が丘公園に伸びていた鉄道も取材してね!
生まれも育ちも府中市民で大の鉄道オタク、全て知ってた、
下河原線は東京競馬場前駅に通じる方は1973.03.31いっぱいで廃止(翌日に武蔵野線が開業)となりましたが、下河原貨物駅は1976年度までありましたよ。
最末期はDD13がトラ車を牽いて一往復だけしてたそうです。
自宅にあった古い都内地図で当線に興味が湧いた私は、1980年秋に訪れてみましたが、軌道が撤去されて間もなかったようで枕木の凹みが残っていました。
競馬場駅跡には寄らなかったし、京王の中河原駅までは行ったのですがなぜか終点付近の記憶がありません。
整地工事とかで立ち入り禁止だったのかなぁ。
その少し前に廃線訪問した方のブログを見ましたが、競馬場駅への分岐点はポイントや信号機をわざわざ撤去して最終廃止まで列車が通ったようです。
今では自転車&遊歩道もキレイにできて住民の通りが盛んですよ。
甲州街道を横断する踏切があったんだけどなぁ!
下河原線の一部、北府中駅付近は東芝で製造された機関車の試走路として「活きています」ね。
現在、中央本線や武蔵野線、東北本線あたりを走っている「EH系電機機関車」は全てこの下河原線跡で試走した筈です。
まぁ「金太郎の交流試験」はどうしたのかはわかりませんが…。😀😃😅
須賀線で思い出しましたが、この界隈に親戚の家があり、
どこかの民家かに腕式信号機があったのを覚えています。
昭和50年台のお話なので、今も現存しているのかもわかりません。
あまり取り上げられる事はありませんが、中野駅から分岐して、早稲田通りの南側に沿うように西進する陸軍用の鉄路があったようです。戦後はすぐに撤去され、古地図でも詳しくは載っていませんが、現在の日大二高のあたりまで伸びていたようです。
西方向に延びている須賀線は、都電27系統と国鉄が平面交差していた珍しい線じゃなかったかしら。そのため当初は蓄電池式機関車AB10型が使われていたとか。
中神が中紙になってます
何で廃止しちゃうかねぇ…
延伸なりなんなりして、今も残ってたら結構使い勝手良いと思うんだけどなぁ…
結局はお金でしょうね。
延伸するにも維持するのにもお金はつきまといますし。
下河原線は実質的に武蔵野線に置き換わった形ですけどね。
北府中駅付近はそのまま流用してるようですし
あと、東京競馬場輸送は京王に完全に任せたわけではなく、府中本町駅が
その代わりになってるだけかと思いますが
東京競馬場駅があったから、京王のほうは府中競馬正門前と正門をつけて
強調していますね
引き込み線レベルではない本格的配線である五日市線を取り上げて下さい
特にまだまだ乗った人間が多く残っている大久野部分ではなくて、90代以上しかいない立川部分に載ったことある人の証言を
現在の青梅短絡線上にあった武蔵上ノ原から、現在の堂方上交差点経由で拝島へ至る、旧五日市鉄道時代のルートですね。国有化されて間もなく(青梅線の立川~拝島間と競合するとの理由から)廃線になり、地図を見るとその廃線跡と思しき「五鉄通り」という道路があるものの、それさえ今なお完全につながっているわけではなく、中には宅地化されてしまった箇所もあって、いささかながらも惜しれまる限りです……。
@@あわのみやけんきち さん
「五鉄通り」には所々に「五日市鉄道の紹介板」が有るそうですよ。😀😃😅
貨物線ばかりだな